社会という悪の愚かさについて
20210714/id:koiiiiike
キーワード
資本主義社会/貨幣制度/カントと美学/美と崇高/目的論と存在論/神
- 導入
「社会とはどうしようもないところである」ということは言うまでもなく、万人が容易に想像可能である。その提言は完全に正しい。一方でそれが間違っている側面もある。それは「社会とはあなたが想像する何倍もどうしようもないところである」ということだ。この論考では社会というのがなぜ愚かで、なぜそれを是正する必要があるのかを体系的に説明する。
- 社会という悪の愚かさについて
社会が愚かである理由は端的にこの2点で説明が可能である。
- 自分(ら)の力で世界が良くなると思っている
- すばらしい未来に到達することを信じていない
社会ではこの一見背反する2つの事象が同率軸で信じられている。これらの事象を紐解きながら社会がなぜ愚かであるのかを解説していく。
- 自分の力で社会が良くなると思っている
社会にいる人々は自分がつくるものや仕組みに意味があると考えている。これは根本的に大きな間違いである。高度資本主義社会において労働とそれによってできる副産物の存在意味は全くない[1]。存在のないカネ[2]が数値的評価に変形しているのみである。社会とは、極めて閉鎖的な空間において、形を変えた様々なカネが交換され続けているだけに過ぎず、そこには利益も損失も存在しない。現状どの場所にそのカネという数値的価値があるかを確認し合っているだけであり、その次の瞬間に数値的意味は無くなっている。例えばものを調達するためのカネはどこから生まれるのか。それは他の凝集にものを調達させた結果の対価にすぎない。この流れが永遠に繰り返されているだけである。
- 全ての業務に存在がない
カネの存在に実態(と意味)がない以上、その階層下にある全ての業務と呼ばれるものにも意味がなくなることがわかる。意味のないもの初出で意味を見出すことは不可能であるからだ。村上春樹の小説、「ダンス・ダンス・ダンス」ではさえないフリーライターの主人公が自身の仕事についてこう語る。
穴を埋める為の文章を提供してるだけのことです。何でもいいんです。字が書いてあればいいんです。でも誰かが書かなくてはならない。で、僕が書いてるんです。雪かきと同じです。文化的雪かき。
ダンス・ダンス・ダンス 村上春樹
何かがあれば何でもいい。これが本質である。評価価値としてのカネが形を変えて別の場所に積み上がっていく行為。家の前に積もった雪をかいて、別の場所に移動させることと同値である。今日いくら雪をかいても、今晩大雪が降れば振り出しに戻るし、そもそも今年は全く雪が降らないかもしれない。私がやらなくても誰かがやるし、最悪春になれば全てなくなる。この程度の次元の世界が全ての業務である。
我々はもっと行動の意味を感知すべきである。
- ものを作ることで世界が救われると本気で考えている
1800年台のイギリスでの産業革命以降、人々はものをつくることで我々が幸せになるのではないかと盲信し続けている。確かに産業革命以降、暮らしの利便性は上がったのかもしれない。しかし人々の幸福の基準は上がったのだろうか。人々は絶えずものを発明することで暮らしを豊かにしてきた。しかしそれは便利な生活によってでは本当の幸せが到来しないということを証明することと同義である。蒸気機関が発明されて暮らしの自動化が進んだ。それでも人間は幸せにならなかった。電気が発明され化学システムが構築された。 それでも人間は幸せにならなかった。戦争によって重工業が大躍進を遂げた。それでも人間は幸せにならなかった。I Tという概念が生まれ全てコンピュータが自動化するようになった。それでも人間は幸せにならなかった。きっとこれからも人間は何かを発明し続け、幸せにならないまま滅びていくだろう。
いつまで人間は実現しない理想を追い続けるのだろう。400年たっても方角の訂正ができない愚かな種族である。我々が幸福になるには、幸福とは何かを再構築し、改めて評価する必要がある。
- 貨幣制度と評価
ここまでカネの意味のなさについて論じてきた。そうすると資本主義そのものに疑念が湧くだろう。筆者の意見として、貨幣制度の解体が世界をよくするのは妥当であるが、それは不可能であるだろうという見解であることを述べておく。
現代社会においてものや人の評価基準はカネという数値でしかない。我々はそれに変わる定量的評価基準を構築すべきである。
現状、カネという評価基準が現代社会にもたらす比重はあまりにも大きいため、人々はその重みに耐えきれず数値的評価を物体に変換している。それが高級車や美食[3]や生殖、タワーマンションやブランドバッグといったものである。可視化できない評価という恐ろしい概念を、目に見える物体に落とし込むことによって心の平穏を保つのである。
- 「すばらしい未来」を信じていない
そもそも、なぜ社会に存在する人々は短絡的で数値化された基準でしか物事を考えられないのだろうか。その理由は明確である。それは「すばらしい未来」を信じていないからである。
本当に到来しなければいけないすばらしい未来と、社会に存在する人々が考える現実的な未来との差はあまりにも大きい。社会の人々が考える未来とはものを生産し、それを消費するだけの社会である。生産と消費を加速しながらそれらを繰り返すだけの未来にはまったく意味がない。なぜ社会の人々はそのような愚かな未来しか考えることができないのか。それは「すばらしい未来」が到来することを信じられなくなっているためである。前述したように社会はワンチャンとその裏切りの集合である。到達されないワンチャンの集合は社会にいる人々を次々と疲弊させていく。積み重なったそれらの疲弊の結果、人々は極めて現実的で、誰も幸せになることのできない現実的な(想像の延長上にしかない)未来を信じることしかできなくなるのである。
- すばらしい未来
社会の存在のなさについて論じてきた。それでは存在のあるものとはなんであろうか。
知である。
我々は知によって知が尊ばれる世界が到来することを信じる必要がある。この世界のことを筆者は「すばらしい未来」と呼びたい。すべての学問、芸術、文化はこの世界にアクセスするためのツールである。このすばらしい未来を所望せずに我々はどこに到達できようか。
- 美と崇高-カントの判断力批判-
ここではカントの判断力批判について要約する。判断力批判の内容は以下のとおりである。
- 人々がものを美であるというとき、それはその個人の主観においてそれが趣味であるということである。
- 趣味であるということには快楽が発生する。逆に美でないもの(趣味でないもの)には苦痛をもたらす。
- 趣味であるかを判断する場合そこで着眼されるのは個人の感性とそのものの表象のみである。
- 美の判断において想像力と悟性[4]は一致する。
- ひとびとが崇高であるものを認知するとき、そこでは想像力と悟性が一致しなくなった状態となる。
- 具体的に崇高とは自分の想像した悟性を認知した悟性が上回る状態であり、その見積もりの甘さによる不快感と、その状態を認知したという快感が同時に来ることによって成り立つ状態である。
- 天才とは美術に規律をもたらす存在のことである。
- 美的芸術は言語的、造形的、感覚遊戯的に分類される。
- 趣味判断と天才のどちらも大切であるが、両者が対立することがある。この時は天才が犠牲にならなければならない[5]。
- 美とは道徳的なものの象徴である。人間の目的論的存在による認知として美は存在する。また、神は現存としての最高原因性としての目的が存在する。
- 神を必要としない人たち
カントは現存の最高原因として神を述べた。目的論として崇高が存在するには神[6]の存在を信じることが不可欠である。カントの述べた神とはもちろんキリストを想定している。一方でキリスト教義的な話はしておらず、普遍的に想像しうる神としてとらえなおすことができる。
崇高の存在のために神が必要であることを述べたが現状はどうか。これは本当に残念なことであるが現在の世界の神とはカネである。カネが支配する世界において人々は神を必要としないのである。
ここで、ここまでの論考を簡単に図解する。
図1 すばらしい未来と現在の社会構造
図示することで明確な目指すべき構造の単純さに気づくだろう。ここまで簡単な世界さえ作れない我々はどこへ向かえば良いのか。
- 社会の再構築
すばらしい未来のために我々はどうすべきなのか。それはすばらしい未来の到来を信じることである。人々がすばらしい未来を信じていないことを批判した。我々は常に性善説であり、啓蒙主義でなければならない。神は人間の中にしか存在しない。様々な思想も人間の中にしか存在しない。各々が自らの手によって本物の世界を取り戻す必要があるのである。
- 終わりに-あるいは「悪の愚かさについて」より-
言及するまでもないが、今回のタイトルは東浩紀によるゲンロン11巻頭論文「悪の愚かさについて2、あるいは原発事故と中動態の記憶」のオマージュである。最後にこの論考の引用を掲載する。
悪の愚かさとは、加害の中動態[7]的な性格のことである。ぼくたちは中動態の論理のなかで、いともたやすく巨大な悪に加担してしまう。
したがって、アンダースは、その愚かさを抜け出すためには、なによりもまず人間のあいだで行為の連関を回復すること、すなわち「中間的な在り方」を変革することが必要だと考えた。たとえば彼は、「その行為の格率が君自身の行為の格率となりうるような事物のみを所有せよ」という「現代の定言命法」を提案している。これはまえにも挙げたカントの定言命法を変形したものだが、ひらたくいえば、ひとがなにか道具を所有するとしたら、それは、その道具を使った結果をすべて自分の行為の結果として受けとめ、責任をとることができるような、そういう道具に限るべきだという命法を意味している。
[中略]
人間は道具を使う。それにより意志と結果のあいだに距離ができる。その距離が中動態を生み出す。アンダースはそれこそが諸悪の根元だと考えている。
[中略]
他方でデュピュイは、同じヨーロッパの哲学者だが、同じ課題に少し異なった角度で接近している。
[中略]
彼は「システム」[8]への注目を訴える。システムとは抽象的なことばだが、それはおそらくは、人間に中動態的なかまえを強いる技術的な文明の全体──ハイデガーであれば Ge-stell と呼んだであろうもの──を意味している。文明は悪を必然的に生み出す。その発生はひとりひとりの意志では制御できない。彼はそれを「システム的な悪」と命名し、道徳的な悪、すなわち人間が能動的に犯す悪ではなく、自然的な悪、すなわち人間が受動的に被る悪でもない、「第三のタイプの悪」に分類している。現代社会が直面しているさまざまな破局(カタストロフィ)は、人間によってでも自然によってでもなく「システム」によって生み出されるというのだ。
ゲンロン11 東浩紀
「悪の愚かさについて2、あるいは原発事故と中動態の記憶」より
人々がなんとなく悪に加担してしまう可能性、そのことを東は「悪の愚かさ」と呼んだ。本論考で示した、現実の存在に耐えられなかった人々が、その成果をなんとなく具現化しようと本質でないものにすがってしまうこの現象も悪の愚かさに近しいのではないだろうか。このような悪はどうしても発生してしまう。そんな無意識のうちに悪に加担してしまうこの世の中で、我々の言動を省み、是正していく必要がある。
[参考]
講談社文庫 ダンス・ダンス・ダンス 村上春樹
岩波文庫 判断力批判 イマヌエル・カント
岩波文庫 美と崇高との感受性に関する観察 イマヌエル・カント
ゲンロンカフェ 2021年7月7日 大井昌和×さやわか
「飲食業界応援企画! グルメマンガと本当に最高に美味しい店」
ゲンロン ゲンロン11 巻頭論考
「悪の愚かさについて2、あるいは原発事故と中動態の記憶」 東浩紀
[1] もしかすればこれらの副作用によって生活/業務が豊かになる、という言説があるかもしれない。しかし本当にそれらのもので生活が豊かになるのであれば、それらは公が行うべき公共システムであるべきであり、公が行う必要がないものであれば、そのものが存在する意義を再考すべきである。
[2] 本論考では存在論的に意味がない通貨のことを「カネ」と表記する。
[3] 漫画家の大井昌和と批評家のさやわかは、2021年7月7日のゲンロンカフェのイベント、「飲食業界応援企画! グルメマンガと本当に最高に美味しい店」においてブルジョワとグルメの関係を「ブルジョワは料理を食べることを、体験ではなく情報の摂取と自己P Rのために行っているに過ぎない」と痛烈に批判している。他方では近年、アートコレクターたちが所持作品の一覧をエクセルで表にし、その表を眺めることを楽しんでいる(つまり購入した作品を飾り鑑賞するという体験ではなく、その作品を所有しているという自己の情報を楽しんでいる)という事実が存在する。これらの話から、今回あげた例示の妥当性を鑑みてほしい。
[4] カントは人間の認知力には感性と悟性があるとした。ものの認知を行う際に表層を理解するのが感性、概念を理解するのが悟性である。悟性は理性などと同様に上級認知能力のひとつとされおり、感性より上位のものであるとされた。悟性を平たく知性と訳す翻訳者も存在する。
[5] 筆者は天才の存在を過信しているのでこの論理には納得しがたい。しかし、その件について今回は議論しないこととする。
[6] 本論考での神とは「人間が到達できないものの超越的な存在」というニュアンスである。筆者自身は特定の神は信仰していない。一方で超越的な存在は信じている。
[7] 哲学者の國分功一郎は能動と受動が曖昧に起こる状態として中動態という概念をうちだした。この論文において東は加害者が他者からの命令などで曖昧に悪事を働く状態を中動態的であるとし、愚かな悪というのは中動態的に発生するものだと述べた。具体的にはチェルノブイリでの原発事故の例を中心としながら、ナチのアイヒマンや旧日本軍のハルビンでの人体実験の例などが挙げられている。
[8] これはまったくの余談であるが、哲学や思想界においてシステムという言葉はよく使われる。様々な文脈で様々な解釈として使われるが、どのシステムという言葉にも共通しているのが「悪の集合としての公」という意味である。具体的にいうと2021オリンピック最高!オリンピック絶対やるぞ!という集団はシステムである。